戦後日本の象徴的な政治家といえば、田中角栄(たなかかくえい)。

第64代、65代内閣総理大臣を務めた人物で、「日本列島改造論」や日中国交正常化なども功績で知られ内閣支持率70%を超える人気の政治家でした。

亡くなって約30年たった今でも抜群の知名度を誇っています。

貧しい生まれの中、最終学歴が高等小学校で総理大臣まで上り詰めたことから豊臣秀吉に例えられることも。

若い世代にはなじみがないかもしれませんが、昭和を代表する政治家の功績をご紹介します。

天才の略歴

1918年(0歳) 新潟県刈羽郡の農家・牛馬商の二男に生まれる

1934年(15歳) 単身で上京して働きながら夜間学校に通う

1937年(19歳) 中央工学校土木課を卒業し共栄建築事務所を設立

1939年(21歳) 徴兵され二等兵として満州へ赴任

1941年(23歳) 肺炎のため除隊、東京飯田橋に田中建築事務所を開設

1943年(25歳) 田中土建工業となり、業績伸張

1944年(26歳) 長女・眞紀子が誕生

1945年(27歳) 移転工事に従事していた朝鮮で終戦を迎える

1946年(28歳) 新潟2区から出馬、落選

1947年(29歳) 新潟3区から出馬、衆議院議員となる

1948年(30歳) 法務政務次官に就任

1949年(31歳) 東京拘置所の獄中から立候補し、10日間の選挙活動で再選

1952年(34歳) 恩人の大河内正敏が死去

1953年(35歳) 母校中央工学校の校長に就任

1961年(43歳) 自民党政調会長就任

1971年(53歳) 通商産業大臣就任

1972年(54歳) 「日本列島改造論」を発表、福田赳夫を破って自民党総裁選で勝利(角福戦争)

1972年(54歳) 訪中し日中国交正常化

1973年(55歳) 第一次オイルショック、中東政策を産油国寄りに転換し原油確保

1976年(58歳) ロッキード事件

1982年(64歳) 東北新幹線・上越新幹線開業

1983年(65歳) ロッキード事件で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決

1985年(67歳) 脳梗塞で入院

1985年(67歳) 関越自動車道全通

1990年(72歳) 政界引退

1992年(74歳) 中国訪問

1993年(75歳) 長女の眞紀子氏が新潟3区から出馬、初当選

1993年(75歳) 刑事被告人のまま死去

コンピューター付きブルドーザー

政治家といえば高学歴なイメージがありますが、田中角栄はそうではありません。

しかし、進学しなかった理由は勉強ができなかったからではなく、成績はとても優秀で毎年クラス長に選ばれるほどリーダーシップもあり、卒業式には代表として答辞を読みました。

政治家になってからは建築士法や道路法など土木関連の法律を次々と発案し、実行していく姿から「コンピューター付きブルドーザー」と評されました。

豊臣秀吉以来の大出世

田中角栄といえば、最終学歴が高等小学校(現在では中学校に相当)であることは有名です。

小学校卒で総理大臣になったのは日本の歴史上で田中角栄だけ。

おそらく、これからも出て来ないでしょう。

新潟県の貧しい農家に生まれ、優れた学歴もないのに政治家になったことは戦国時代に農民から太閤になった豊臣秀吉と重なります。

田中角栄は「今太閤」とも呼ばれ、どちらも人たらしといわれるほど人の心をつかむことが上手かったという共通点があります。

「日本列島改造論」を実行した

田中角栄が自民党総裁選の政策要綱としたのが「日本列島改造論」です。

その内容を簡単にいうと、交通網を発達させることで都市部への集中を避け、地方を発展させるという考え方です。

総理になるとこれを実行し、日本列島に鉄道高速道路などの交通網を張り巡らせ、経済を活性化させることに成功しました。

100本の議員立法

「三権分立(さんけんぶんりつ)」、覚えていますか?

日本では国会=立法、内閣=行政、裁判所=司法と権力が分散されていますよね。

議員立法とは国会議員の発案で成立した法律のことで、国会議員になると法律を作ることができます。

ただし、衆議院の場合は20人、参議院の場合は10人以上の賛成がないと提案できず、提案しても成立するとは限りません。やはり根回しや駆け引きなど、“政治力”が必要です。

100本以上の議員立法を行い、33本を成立させたのは田中角栄だけで、今後もこれを越える政治家は現れないだろうといわれています。

法律の勉強にとても熱心で、戦後にGHQから押し付けられた日本の経済発展に不利な法律を次々と改正しました。

冠婚葬祭を大事にする

田中角栄は冠婚葬祭など人付き合いを大切にしていて、とくに葬儀を重要視していました。

「葬儀は長い間お世話になった人との最後のお別れなんだ。人の道が分からなければ、ろくな政治家になれない。」

「結婚式などは皆が喜んでいるのに対し、葬式は誰もが落ち込んでいる。寄り添ってやるのは当然のことではないか。」

という名言も残しています。

とても情にもろい人で「“情と利”の角さん」と言われ、敵も味方も関係なく葬儀にはできる限り駆け付け、遺族に寄り添い一緒に涙する姿をあちこちで見せています。

竹下登元総理の父親が亡くなったときには、人口4000人ほどの小さな村に田中角栄が率いる国会議員70人が飛行機をチャーターして訪れたことも!

政敵の親族が亡くなったときに忙しい合間をぬって50万円の香典を持参して葬儀に出席したり、政敵だった社会党の河上丈太郎の訃報を聞いたときには招かれていないのに葬儀に駆け付け、年末の雨が降る寒い日に2時間立ち尽くして遺族と一緒に野辺の送りをしたこともあります。

こうした姿勢が政敵の心を動かし、理想とする政治を進めることにつながったのでしょう。

田中角栄、天才の理由まとめ

田中角栄は家が貧しかったために華々しい学歴も経歴もありませんが、とても情に厚く、強いリーダーシップがありました。

豊臣秀吉とイメージが重なる天才的な人たらしで、まさに政治家向きの人物でした。

そんな天才的な政治家も、戦後最大の汚職事件「ロッキード事件」で失脚。事件の全容は今も解明されておらず、被告人のまま亡くなりました。

どうしても「政治とカネ」のイメージがありますが、田中角栄が昭和の偉人として語り継がれていくことは間違いないでしょう。

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