「足利尊氏(あしかがたかうじ)」といえば、室町幕府初代将軍として有名ですよね。

しかし、室町幕府を作った人…という漠然としたイメージはありますが、具体的に彼が何をした人なのか知らない方も多いかもしれません。

今回は足利尊氏の功績や死因、どんな性格の人物だったのかなど、時代背景をまじえて生涯をまとめてみました!

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足利尊氏の一生

まずは、足利尊氏の生涯について年表仕立てで解説します。

 

1305年:足利尊氏、京都で誕生

尊氏は鎌倉時代末期に現在の京都府綾部市に足利貞氏の長男として生まれました。元の名は「高氏」と書きますが、記事中は「尊氏」で統一しています。

足利家の祖先は鎌倉時代の清和天皇につながり、「清和源氏」という武家の棟梁の家系です。鎌倉幕府を作った源頼朝と同じ名門一族で、将軍家に次ぐ家柄として足利家は鎌倉幕府の御家人の間で重んじられました。

しかし、当時の鎌倉幕府では北条氏が政治を支配し、足利家よりも権力を持っていました。

北条氏は足利家と並ぶほどの名門ですが、平氏の血を引く一族。尊氏は幕府を源氏の手に取り戻したいと考えます。

 

【1333年】後醍醐天皇の味方になる

源氏による幕府再建を志していても、家を守るためにはなかなか行動できません。まだ尊氏には北条氏に対抗する力がありませんでした。

この間、後醍醐(ごだいご)天皇が倒幕を試みて1324年に「正中の変」を計画しますが未遂に終わり、1331年から1333年にかけて「元弘(げんこう)の変」を起こしました。

尊氏は数年続いた「元弘の変」では父の喪中や自身の病気を理由に出陣を何度も断っていましたが、強引に出兵させられたことも鎌倉幕府への不満のひとつといわれています。

楠木正成の奮闘による幕府の形成悪化を見て尊氏は後醍醐天皇に寝返り、六波羅探題を滅ぼしました。

六波羅探題は京都にある鎌倉幕府の出張所のようなもので、鎌倉の幕府本体は後醍醐天皇が送った新田義貞が滅ぼしています。

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【1335年】後醍醐天皇に反旗をひるがえす

蒲倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇は京都で天皇中心の政治「建武の新政(けんむのしんせい)」を始めます。

鎌倉幕府倒幕の功労者として尊氏は天皇の諱(いみな)から「尊」の字を与えられて莫大な褒賞も得ましたが、新しい政権では要職に就けず、政治からは遠ざけられました。

その理由は、後醍醐天皇が尊氏の実力と人望をおそれたためといわれています。

建武2年(1335年)、北条氏の残党による「中先代の乱」が起こり、鎌倉にいる弟と息子を守るために後醍醐天皇の反対を押して鎌倉入りし、討伐しました。

これにより尊氏と後醍醐天皇の溝が決定的に深まり、また、「建武の新政」で後醍醐天皇が貴族を優遇する政治を行ったことによる武士の不満もあり、尊氏は後醍醐天皇に反乱を起こします。

後醍醐天皇は尊氏討伐のために鎌倉へ新田義貞を送り込み、「延元の乱(えんげんのらん)」が起こりました。

この戦いの余波は九州まで及びますが、尊氏は新田義貞と楠木正成を「湊川の戦い」で破って勝利しました。

 

【1338年】室町幕府初代将軍になる

後醍醐天皇は吉野へ退き、尊氏は光明天皇を即位させて京都に武家中心の幕府を開きます。尊氏は1338年に征夷大将軍となり、室町幕府の初代将軍となりました。

武士の在り方を説き、「建武式目(けんむしきもく)」を定めます。

後醍醐天皇は尊氏と対立したまま、それぞれが別の天皇を立てて吉野(奈良県)と京都に都を置く時代が始まりました。南北朝時代の到来です。

南朝=吉野の後醍醐天皇、北朝=京都の光明天皇から始まり、やがて南朝+尊氏の弟・足利直義(ただよし)VS北朝+高師直(こうのもろなお)という対立へと変化していきました。

高師直は室町幕府で軍事担当をしていましたが直義と対立していて、暗殺未遂事件も起こっています。

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足利尊氏の晩年と死因

最初は弟の直義と協力して室町幕府での政治を行いましたが、後に対立。「観応の擾乱(かんおうのじょうらん)」が起こり、全国を巻き込んだ大戦乱が起こります。

当時の尊氏は病気がちで、息子・足利義詮(よしあきら)に幕府の実務を任せていたため、弟・直義と家臣の高師直との争いも静観していました。

ところが、九州で足利直冬(ただふゆ)が南朝に味方して挙兵すると、尊氏も急遽参戦。

直冬は尊氏の子ですが認知しておらず、尊氏の弟である直義の養子として育ちました。

このあたりの経緯は不明ですが、複雑な事情があったようです。

1354年には尊氏自ら直義軍の残党と戦って退けますが、そのときの矢傷によって背中に腫物ができ、これが死因となったと考えられています。

1358年(正平13年)4月30日、54歳のときに京都で死去しました。

足利尊氏のお墓は二か所あるようです。

・京都府京都市 等持院:足利家の菩提寺

・神奈川県鎌倉市 長寿寺:遺髪が埋葬されている

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足利尊氏ってどんな性格?

ともに鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇に敵対した反逆者とされているので、足利尊氏に悪いイメージを持っている方もいるかもしれません。

とくに、戦前の日本では尊氏は謀反・反乱の象徴として忌み嫌われ、道鏡や平将門とともに「日本三悪人」とされて歴史から抹殺されてきました。

しかし、実際の尊氏は誠実で寛大な性格で多くの武士から慕われていて、人望があったといわれています。

夢窓疎石(むそうそせき)という僧侶は尊氏を「勇気、慈悲、無欲の三徳を兼備した前代未聞の将軍であった」と評価していました。

尊氏は夢窓疎石に帰依して禅を学び、とても信心深い人であったようです。

後醍醐天皇とは対立しましたが本心ではずっと尊敬していたといわれ、天皇が崩御するとその死を悼んで天龍寺を建立して菩提を弔いました。現在も京都・嵐山にある、あの天龍寺です。

また、尊氏は数度の敗戦を経験していますが、ここ一番の戦では負けない勝負強さもあります。とても肝が据わっていて、矢が雨のように降る戦場でも笑って立っていたといわれるほど。

どんなに戦況が悪くなってもまったく動揺せず、家臣に「敵が近づいて来たら切腹する時期を教えてくれ」と言うなど、自分の命に執着がなかったのかもしれません。

敵でも降伏すれば許し、自分の元に迎え入れるなど慈悲深さもあったようです。

尊氏との戦いに敗れた楠木正成の首が六条河原にさらされていたのをすぐに引き取り、家族の元に送り届けたという逸話もあります。

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まとめ

尊氏は室町幕府初代将軍で、さまざまな功績があるにもかかわらず天皇に背いたという一点で歴史から抹殺されていました。

尊氏が残した歌にも、

「よしあしとひとをばいひて たれもみな わが心をや知らぬなるらん(皆、自分のことを好き勝手に言うが、私の気持ちなど誰も分かってはいない)」

というものがあります。

「源氏による武家政権の復興」という大義を掲げて数々の戦を勝ち抜き、見事成し遂げた尊氏ですが、その心中にはさまざまな葛藤があったのかもしれませんね。v

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