日本史きっての有名人、織田信長。

歴史に詳しくなくても、その名を知っている方も多いでしょう。

超有名な戦国武将であり、初の天下統一を果たした偉人でもあり、まさに天才。この記事では、織田信長の逸話やエピソードを元に天才ぶりをご紹介します。

 

天才の略歴

1534年(1歳) 織田信秀の嫡男として尾張国勝幡(しょばた)城で誕生、幼名は吉法師(きっぽうし)

1546年(13歳) 元服し、「織田三郎信長」と名乗る

1549年(16歳) 美濃国の斎藤道三と父が和睦を結び、道三の娘・濃姫と結婚

1552年(19歳) 父の病死により家督を相続

1554年(21歳) 織田家中の敵・織田彦五郎を討ち、清洲城に移る

1558年(25歳) 弟・織田信行(信勝)を暗殺

1560年(27歳) 「桶狭間の戦い」で駿河の大大名・今川義元を討つ

1568年(35歳) 足利義昭を擁して上洛

1571年(38歳) 比叡山延暦寺を焼き討ち

1573年(40歳) 足利義昭を畿内から追放、室町幕府を滅亡させる

1575年(42歳) 「長篠の戦い」で武田勝頼軍を討つ

1576年(43歳) 安土城の築城開始

1582年(49歳) 本能寺の変により没

実は天才で頭がよくなかった!?「尾張のうつけ者」

いきなりタイトルと反しますが、実は子供の頃の信長は天才ではなく「うつけ」=変わり者という評価でした。服装もぶっ飛んでいて、いわゆる「傾奇者(かぶきもの)」といわれるスタイルです。

この「うつけ」という評価は“武家の子らしからぬ”という意味で、むしろ子供の頃から類まれな奇才ぶりを発揮していたため、理解されなかったのかもしれません。

有名な「うつけ」エピソードが父親の葬式での出来事。

信長が18歳の頃に父の織田信秀が病死し、19歳で織田家の家督を継ぎました。

葬式の当日、信長は喪主でありながら遅刻し、服装もいつものぶっ飛んだ姿で現れます。

当然、まっとうに喪主を務めることはなく、父の位牌に抹香を投げつけて立ち去ったと伝えられています。

また、武家の嫡男なので教養を身に着けるため、信長は勉強のためにお寺に通っていたのですが、授業は真面目に聞かず食事の時間には人の食べ物を奪って食べていたとも。

幼児ではなく、13歳のときの話です。

武家の跡取りは幼い頃から将来の側近となる同世代の子供が側仕えとなり、一人で出歩くことなどありません。しかし、信長はしょっちゅう屋敷を抜け出しては農民や庶民の子供と遊んでいたので、それも家臣達には不思議に映ったのかもしれません。

 

「うつけ(変わり者)」は仮の姿だった

父が亡くなったのと同時期、「美濃の蝮(まむし)」と恐れられた斎藤道三と初の対面を果たします。

道三は信長の正妻の父ですが、結婚後数年経つまで会ったことがありませんでした。

そんな重要な場にもいつものぶっとんだ姿で遅刻して現れ、道三を激怒させます。

しかし、正式な会見の場ではきちんとした身なりで堂々たる若武者ぶりを見せつけ、道三は信長に「美濃を譲る」と遺言するほど篤く信頼しました。

切れ者で知られる道三ですから、短時間で信長の実力を見抜いたのかもしれませんね。

信長が生まれた当時の尾張は強国に囲まれた小国で、織田家中も敵だらけ。

実の弟にも何度も反乱を起こされています。

「うつけ」としてふるまうことで周辺国の有力な武将や織田家の家臣までも油断させ、「織田家の嫡男は大した人物ではない」と思わせたのでは?という説があります。

若い頃から有能な人物と知られていれば、世に知られることなく早々に討たれていたかもしれません。

 

実は戦下手で慎重派!?天才ではない?

信長といえば、やはり圧倒的なカリスマ性を持つ天下人というイメージなので、戦上手で連戦連勝なのかと思ってしまいますが、そうではなかったようです。

信長は生涯でだいたい100戦したといわれ、68勝20敗という戦績。5回に1回は負けていますし、信長と直接対決はしていないものの、上杉謙信にも「織田軍は弱い」と酷評されています。

信長と同じくらい有名な戦国武将である上杉謙信や武田信玄は生涯でおよそ70戦のうち負けたのは2~3回だけだとか。比べてみると、やはり信長の負けっぷりが際立っていますよね。

信長は戦のときは作戦を家臣に相談することなく、独断で行動しています。これは、スパイから戦略が筒抜けになって負けるリスクを減らし、タイムリーに仕掛けることで勝ちやすくするためでしょう。

信長といえば破天荒なイメージがありますが、実は意外なほどの慎重派でした。織田家の家督を継いだ後も、弟や親族など身近な敵から倒していき足元を固めていきました。

“信長は残虐な暴君である”というイメージの元となった「比叡山焼き討ち」でも、敵である朝倉と浅井を比叡山がかくまっていたため、引き渡し交渉を1年以上続けた結果のことでした。

 

祖父から続く金儲けの才能

信長が天才といわれる理由はたくさんあります。

ひとつは、完全な実力主義であること。

戦国時代の武家は身分や家柄、先祖代々の家臣であるかなどで恩賞や領地が決まります。信長は一切その点を考慮せず、有能であれば身分に関係なく取り立て、代々の家臣であっても期待した働きがなければ領地を取り上げることもありました。

信長の忠臣として出世した豊臣秀吉も農民出身で知られていますよね。

また、当時は珍しい兵農分離を徹底しました。

一般的に、戦国時代の兵士は戦がないときは農民として畑を耕していました。

戦国大名にとって米は重要な資産で、戦があるからといって農作業をおろそかにすることはできません。そのため、戦略上今すぐ攻め込みたい場合でも、農繁期なので兵が集まらない…ということも珍しくありませんでした。

信長はこの問題を解決するため、兵士は兵士、農民は農民と役割をきっちりと分担。徴兵した農民と兼務の兵士より軍隊専門で鍛えた兵士が強いのは当たり前ですし、季節に関係なく戦をすることができます。

何よりも信長を助けたのが圧倒的な資金力です。

尾張はもともと穀倉地帯で豊かな国ですが、信長の資金力を支えたのは木曽川の河口にあり伊勢湾に面した「津島」や熱田神宮の門前町「熱田」でした。津島には港の莫大な関税があり、熱田は東海道最大の宿場町。

尾張は海と陸の物流経済拠点を擁していたことになります。

津島を支配したのは信長の祖父ですが、信長自身も古い慣習を廃止して新規の商売人も自由に営業ができる「楽市楽座」や、物流を妨げる関所の撤廃、居城をたびたび変えて意図的に新しい城下町を発展させるなど、さまざまな経済対策も成功させています。

上杉謙信に「弱い」と酷評された織田軍ですが、戦で何度負けようが、すぐに兵士や武器を用意して再戦することができますよね。

 

織田信長、天才の理由まとめ

尾張の戦国武将・織田信秀の嫡男として誕生し、本能寺の変により49歳で没した織田信長は日本史上誰も成しえなかった天下統一に限りなく近づきました。

この功績を残せた理由は、信長自身が古い慣例や常識に縛られない革新的なアイデアマンであり、圧倒的なカリスマ性やリーダーシップを兼ね備えていたことが大きいですが、一番の理由はやはり資金力。

織田信長=「金儲けの天才」といえるでしょう。

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