織田信長、豊臣秀吉と並んで「三英傑」といわれる徳川家康。

およそ260年続いた徳川幕府を開き、戦国時代を終わらせた大きな功績がありますが、信長と秀吉に比べるとやや影が薄い印象ではないでしょうか。

江戸時代にも「織田がつき 羽柴が捏ねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」という歌が流行ったように、棚ぼた的に天下が転がりこんで来たというイメージがあるかもしれません。

 

天才の略歴

1542年(1歳) 岡崎城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の長男として誕生、幼名は武千代

1545年(4歳) 織田信長の人質となり、尾張で過ごす

1547年(6歳) 今川義元の人質となり駿府へ移り、父の死去により松平家当主となる

1557年(16歳) 今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と結婚

1560年(19歳) 桶狭間の戦いにより今川義元が討たれる、今川家から独立

1563年(22歳) 三河国を統一し徳川家康に改名

1572年(31歳) 武田信玄と対立、三方ヶ原の戦いで大敗

1575年(34歳) 長篠の戦で織田信長とともに武田勝頼を破る

1582年(41歳) 大坂滞在中に「本能寺の変」が起こる

1584年(43歳) 豊臣秀吉と対立、小牧・長久手の戦いが起こる

1586年(45歳) 豊臣秀吉に臣従

1590年(49歳) 小田原征伐に参戦、関東移封

1598年(57歳) 豊臣秀吉死去

1600年(59歳) 関ケ原の戦い

1603年(62歳) 征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開く

1605年(64歳) 将軍の座を徳川秀忠へ譲る

1614年(73歳) 大坂冬の陣

1615年(74歳) 大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させる

1616年(75歳) 駿府城で死去

人質からの独立

家康は岡崎城の城主の嫡男として生まれますが、当時の三河国は尾張の織田と駿河の今川に囲まれた弱小国でした。

幼い家康が今川家へ人質として送られることになりましたが、味方の裏切りによって織田家へ売り飛ばされます。

わずか4歳で両親と引き離され、過酷な幼少期を過ごしました。この時点ではとても天下人になるとは思えません。

そんな家康に転機が訪れたのが「桶狭間の戦い」です。

今川義元の元で元服して、すすめられるまま義元の姪と結婚し、ゆくゆくは今川家の有力な武将となるところでしたが、義元の敗北で状況が一変します。

17歳で織田家を継いだばかりの若輩者の信長と、41歳で「海道一の弓取り(東海道一の大名)」と呼ばれた義元では、身分的にも戦力的にも勝負にならないはずでした。このとき、家康も義元の軍勢として参戦しています。

確実に負けると思われていた信長が勝ったことで、家康は今川家から独立

岡崎城の城主として三河へ戻ることができ、祖父の代からの悲願だった三河統一を果たします。

三方ヶ原の戦い

家康といえば天下人としてどっしりと構えているイメージですが、若い頃は意外と血気盛んで向こう見ずな性格だったため、三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」では周囲が止めるのを聞かずに武田信玄と戦います。

結果、惨敗して切腹寸前まで追い詰められました。

家康には優秀な部下がたくさんいました。とくに家康の故郷である三河国の時代から仕えていた武士たちは「三河武士団」と呼ばれ、その強さと結束力は有名です。

家康が今川家の人質となっている間の三河は今川家の属国のような扱いとなっていて、家康を岡崎城に迎えて松平家(当時)を再興することを目標に結束を強めました。

三方ヶ原でも多くの家臣が自分を犠牲にして家康を助けています。

命からがら城へ帰った自分の情けない姿を肖像画として残していて、「勝つ事ばかり知りて負ける事を知らざれば其の害身に至る(負ける経験をしていない者は逆境を乗り越えられずに終わる)」という名言を残しました。

長篠の戦い

長篠城は三河国の東の端にあり、武田家の甲斐国に近い場所です。

このとき、すでに武田信玄は亡くなっていて、嫡男の勝頼(かつより)が武田家を継いでいました。

長篠の戦いで長篠城は武田軍に包囲されて絶体絶命の状況で籠城中でしたが、信長へ援軍の要請に向った鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という武士が往復130kmの山道を走りぬき、城へ戻るところを武田軍に捕らえられます。

命を助ける代わりに嘘の情報を伝えるように脅された強右衛門は、間もなく援軍が来ることを大声で叫んで味方に知らせ、その場で殺されました。

強右衛門の忠義心は武田軍からも賞賛され、助命を求める声もありましたが、勝頼は無視しました。

この勝頼の行いに家康は「勝頼は大将の器ではない」と激怒。

そして、「武士の忠義を粗末にする大将はいずれ家臣の離反を招いて滅亡するだろう」と断言しました。

家康の予言通り勝頼はほとんどの家臣に見放され、最期は自害に追い込まれて武田家は滅亡しています。

若い頃の無茶があったからこそ、家康は家臣の忠義を大切にすることを学んだのかもしれません。

家臣が宝

秀吉が関白だったころ、諸国の大名を集めて自分の持つ宝物を自慢したことがあります。

そして、家康はどんな宝物を持っているのか?と尋ねました。

それに対して家康は「私は三河の田舎の生まれなので、これといった宝物は持っていません。しかし、自分のために命を賭けてくれる武士が500人います。この侍たちを何物にもかえがたい宝と思っています」と答えました。

家康は信長や秀吉と違い、戦のときに細かい指示をするタイプではなかったようですが、これも家臣が自分の思い通りに動いてくれるという信頼があってこそ。

信長はワンマン社長タイプなのでついて行ける部下が少なく、武家出身ではない秀吉には成功する前から忠義を尽くしてくれる部下がいませんでした。

ここが家康と信長・秀吉の大きな違いで、家康が天下を取れた理由なのかもしれませんね。

徳川家康、天才の理由まとめ

家康は子供の頃に親元を離れて織田信長や今川義元の人質として育ち、天下人になるとは思えない子供時代を過ごしました。

戦国時代の動乱の中で天才的な武将たちを間近に見て育ったからこそ、自分にそこまでの才能はないと冷静に分析し、チャンスを待つことができたのかもしれません。

昔から家康に仕えていた団結力のある家臣団に支えられていたことも家康の成功の理由と考えられます。

細かく指示しなくても思い通りに動いてくれる部下は、本当に何物にもかえられない宝でした。

家康=人を使う天才だったのかもしれません。

スポンサーリンク