「幕末に活躍した偉人といえば?」の問いに、多くの人が挙げるのが坂本龍馬ではないでしょうか。

坂本龍馬は江戸幕府を倒し、日本の近代化に大きく貢献した人物として知られています。

大名でもなく、土佐藩の身分の低い武士の家に生まれた龍馬がどのようにして歴史に名を残すことになったのか?

気になりますよね。

様々なエピソードからその理由を紐解いてみましょう。

天才の略歴

1835年(1歳) 11月15日、土佐国の郷士・坂本八平の次男として誕生

1853年(19歳) 江戸で北辰一刀流の千葉道場に入門

1858年(24歳) 土佐へ帰国

1861年(27歳) 武市半平太が作った「土佐勤皇党」に参加

1862年(28歳) 土佐脱藩、勝海舟の弟子となる

1863年(29歳) 脱藩の罪を許され、神戸海軍操練所の塾頭になる

1864年(30歳) お龍や西郷隆盛と知り合う

1865年(31歳) 亀山社中を作る

1866年(32歳) 薩長同盟が成立、寺田屋事件

1867年(33歳) 4月 海援隊隊長となる

1867年(33歳) 6月「船中八策」を考える

1867年(33歳) 10月 大政奉還

1857年(33歳) 11月15日 近江屋で襲撃され33歳で死去

剣術の達人!

龍馬といえば拳銃のイメージですが、年表にもあるように龍馬は北信一刀流など様々な剣術を学んだ剣術の達人でした。

1848年に土佐藩士で剣客の日根野弁治の道場に入門し、小栗流(日本武術の流派で、剣術・抜刀術・手裏剣術・槍術・棒術・薙刀術・柔術など)を熱心に稽古しました。

5年間修業にはげんだ結果、「小栗流和兵法事目録」を得ました。

小栗流の目録を得た1853年、19歳のときに剣術修行のために江戸へ自費遊学へ。

1855年に父の八平が亡くなり、兄の権平が坂本家を相続すると龍馬は再度江戸へ剣術修行に出かけます。

2回目の江戸では土佐藩邸中屋敷に滞在し、以前も学んだ千葉道場の他、千葉周作の玄武館でも一時修行していたとされます。

1年間の予定だった遊学の延長を土佐藩に許されると、1858年1月には師匠である千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられ、千葉道場で塾頭を務めるほどの腕前となりました。

さらに1861年には小栗流の皆伝目録である「小栗流和兵法三箇條」を授けられています。

若き龍馬に影響を与えた「黒船」

龍馬が19歳で北信一刀流に入門した頃、アメリカのペリー提督が日本の開国を求めて浦賀沖にやって来ました。

いわゆる「黒船来航」です。

そのとき龍馬も土佐藩の武士として品川海岸で警備にあたったといわれ、日本とアメリカの技術力の差を目の当たりにしました。

剣術の達人だった龍馬も、いくら剣術の腕を磨いても軍艦にはかなわないと考え、後に兵学者の佐久間象山に入門して西洋砲術を学んでいます。

土佐へ帰国後は土佐藩の絵師・河田小龍から海外事情を聞くなどして、さらに海外への興味を強くしました。

天才のよき理解者

龍馬は兄が1人、姉が3人という5人兄弟の末っ子に生まれました。

龍馬の理解者相談相手でもあったのが、3番目の姉の留(とめ)。

龍馬の姉として知られる名前は「乙女(おとめ)」ですが、これは“お留”の当て字だとか。

乙女さんは文武両道で三味線や和歌、舞踊をたしなみ、剣術、馬術、弓術や薙刀もめちゃくちゃ強いというスーパーお姉さんです。

早くに亡くなった母の代わりに龍馬の面倒を見て、幼い頃は泣き虫でいじめられっ子だったという龍馬を鍛えました。

体格もよく、身長175cm、体重112kgという現代の基準でも大柄で、「坂本家の仁王」と呼ばれたとか。

龍馬自身も体格がよく、残された着物や写真から推定すると当時の日本人男性の平均身長150cmを大きく上回る170cmほどの大柄だったといわれています。

龍馬が体験した数々の「日本初」

龍馬といえば、新しいことを次々と取り入れたというイメージですよね。

有名なこの写真も、袴にブーツを合わせた斬新なスタイルです。

その他にも、龍馬は「日本初」といわれる新しいことをしています。

新婚旅行

坂本龍馬には30歳のときに結婚した「おりょう」という妻がいました。

寺田屋事件の後、西郷隆盛などにすすめられて2人で九州に旅行したのが日本初の新婚旅行といわれています。

この旅行の様子を絵に書き、姉の乙女に送ったものが現在も残っています。

日本初の商社「亀山社中」

龍馬が31歳のとき、薩摩藩の支援を受けて長崎に「亀山社中」という商社を作りました。

これが日本初の会社といわれ、薩摩が買った船や武器を長州へ運ぶことで、薩長の結びつきを強くしたともいわれます。

その後、土佐藩の後藤象二郎の支援を受けて「海援隊」と名を改めます。

新婚旅行から戻った龍馬は海援隊で活躍し、長崎から江戸へ向かう船の中で大政奉還につながる「船中八策」を考えました。

「人たらし」である

歴史上の人物で「人たらし」といわれるのは豊臣秀吉が有名ですが、龍馬もまた交友関係が広く、人脈作りに長けていました。

龍馬の研究者は龍馬のことを「原作者ではなく脚色者である」と評価しています。

龍馬が“日本初”といわれる新しいことに次々と挑戦したり、海外のものを取り入れたりしたことも事実ですが、彼のしたことすべてが斬新だったわけではありません。

龍馬の功績といわれる「薩長同盟」もすでに多くの人が提唱して成し遂げようとしましたが、上手くいかずに投げ出されていたもの。

最後は龍馬の人脈によって上手くまとめることができました。

坂本龍馬、天才の理由まとめ

坂本龍馬は明治維新に大きく貢献した人物で、仲が悪かった薩摩藩と長州藩を結び付けたことが最大の功績です。

大政奉還は龍馬が後藤象二郎に提案し、土佐藩から徳川慶喜に提案されて実現しました。

船中八策は明治政府の基本方針となり、「五箇条の御誓文」になりました。

龍馬自身は新しいもの好きではありましたが、功績は独自性があるものばかりではありません。

「人たらし」といわれるほどの社交性人脈作りが坂本龍馬最大の武器で、天才の理由といえるでしょう。

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