伊藤博文(いとうひろぶみ)は明治時代の政治家で、日本の初代内閣総理大臣として知られる人物です。

明治維新後の日本の近代化を導き、明治政府では数々の要職に就任。その功績によって1986年まで発行されていた千円札の肖像にもなりました。

しかし、伊藤博文の名前は知っていても、具体的にどんなことをした人なのかを知らないという方も多いかもしれません。

この記事では、伊藤博文についてわかりやすく紹介します。

天才の略歴

1841年(1歳) 周防国(現在の山口県)に生まれる、幼名は「利助(りすけ)」

1854年(13歳) 父が伊藤家の養子となり、「伊藤」姓になる

1857年(16歳) 松下村塾に入門

1862年(21歳) イギリス公使館焼き討ち

1863年(22歳) イギリス留学

1864年(24歳) 帰国

1867年(26歳) 明治維新

1868年(27歳) 初代兵庫県知事に就任

1871年(30歳) 岩倉使節団の一員として欧米諸国訪問

1878年(37歳) 大久保利通の跡を継ぎ、内務卿となる

1885年(44歳) 初代内閣総理大臣に就任

1888年(47歳) 初代枢密院議長に就任

1889年(48歳) 大日本帝国憲法公布

1892年(51歳) 第二次伊藤内閣発足

1894年(53歳) 日清戦争

1898年(57歳) 第三次伊藤内閣発足

1901年(60歳) 第四次伊藤内閣発足

1905年(64歳) 初代韓国統監府の初代統監に就任

1909年(68歳) 韓国の独立運動家・安重根により、中国・ハルビン駅で暗殺される

農民から下級武士へ

日本の初代内閣総理大臣となった伊藤博文ですが、もともとの身分は高くなく、林十蔵という農民の長男として生まれました。

幼い頃は家がとても貧しく、両親が出稼ぎをするために母の実家に預けられていた時期もあるとか。

後に、父が伊藤弥右衛門という萩藩の中間(ちゅうげん、雑用を行う武家の奉公人)の養子となったため、伊藤博文も下級武士の身分になりました。

当時の日本にはまだ身分制度が残っていたので、生まれた身分でほぼ将来が決まっています。

そんな時代に農民から総理大臣にまでなった伊藤博文は豊臣秀吉レベルの大出世でした。

吉田松陰が認めた天才

父が武士の家に養子に入ったとはいえ、身分が低いため伊藤博文は藩の学校へ通うことはできません。

幕末の思想家・教育家で知られる吉田松陰の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」では身分に関係なく学ぶことができたため、伊藤博文も入門しています。

吉田松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙では、

「才劣り学幼きも、率直にして華なし、僕頗る(すこぶる)これを愛す」

「利助亦進む(またすすむ)、中々周旋家になりそうな」

と評価しています。

「利助」とは伊藤博文のことで、「周旋家(しゅうせんか)」とは人柄がよく、交渉が上手いという意味。

若い頃から政治家向きの人物であったようです。

優秀な英語力があった

22歳のときに長州藩の留学生としてイギリスに行き、一生懸命勉強してわずか数か月で英語の読み書きができるようになりました。

英語を話せることは伊藤博文の大きなアドバンテージとなります。

明治維新が起こったばかりの日本には技術力がなく、まだ世界と競争するような力はありません。上海やロンドンの発展を見た伊藤博文も、今の日本では世界に勝てないと痛感したところで長州藩が外国船を砲撃したことを知り、急いで帰国。

勝ち目のない戦争を止めようとしましたが、外国(イギリス、フランス、アメリカ、オランダ)の連合艦隊に攻撃されて敗北。「下関事件」と呼ばれるこの戦争の和平交渉では通訳を務め、少しでも長州藩が有利になるように働きました。

明治政府でも英語力が評価され、外国事務局判事など重要なポストに就任し、岩倉使節団の一員として欧米諸国を視察しました。

海外への留学や視察で得た経験から、

  • 貨幣法の制定
  • 宮中の改革
  • 太政官制の廃止
  • 内閣制度の導入
  • 鉄道事業の整備

などにも取り組んでいます。

初代内閣総理大臣に就任

博文は44歳で初代内閣総理大臣に就任していますが、これは現在でも破られていない最年少記録です。

その後も第5代、第7代、第10代と計4回も総理大臣に就任しています。

“伊藤博文がいないと政府が機能しない”とまでいわれ、新しく作られた国の機関のほとんどで伊藤博文が初代トップに就任しています。

伊藤博文の政治家としての最大の功績は大日本帝国憲法の制定です。

明治維新によって日本は大きく時代が変わりましたが、明治維新の中心となった薩摩藩と長州藩が明治政府でもそのまま政府の要職についたため、国民からは不満の声が上がり「自由民権運動」が起こります。

自由民権運動の目的は国民の代表による政治=国会の召集です。

欧米の憲法制度や内閣制度を学ぶため、1882年から1883年にかけてドイツ(プロイセン)を視察しました。

千円札の肖像に

伊藤博文が肖像の千円札は1963年に発行されました。

このとき伊藤博文と並んで候補となっていたのが、渋沢栄一。2024年から新一万円札の肖像になりますね。

渋沢栄一は「日本の資本主義の父」といわれ、博文とは1歳違いの同世代です。

政治と経済、ジャンルは違いますが2人は近代の日本を大きく発展させたという共通点があります。

ちなみに、現在のお札の肖像に選ばれるのは基準がいくつかあり、

  1. 明治以降の人物である
  2. すでに亡くなっている
  3. 国民によく知られた功績がある
  4. 人目をひく特徴的な外見をしている

“特徴的”というのは、具体的には眼鏡をかけていたり、目立つヒゲやシワなどがあったりすることです。

伊藤博文もすごく特徴的なヒゲですよね。

昭和の中頃にはまだ偽造防止の技術が低かったので、ヒゲのない渋沢栄一ではなく伊藤博文が選ばれたという説があります。

余談ですが、伊藤博文の千円札は発行されてから1986年まで24年間も大量に流通したため、お札の通し番号が1巡しています。そのため、番号とアルファベットのインクの色が黒(前期)と青(後期)の2パターンあるとか。

伊藤博文、天才の理由まとめ

日本の初代内閣総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の制定や内閣制度など、現代にもつながる政治の原型を作ったのが伊藤博文です。

吉田松陰にも評価された政治家向きの性格や、父親が下級武士の養子となった幸運もありますが、わずかな留学期間で英語の読み書きを習得するなど苦労もしていて、努力型の天才です。

まだ身分制度が残る時代の日本で農民の生まれから初代内閣総理大臣にまで上り詰めた伊藤博文は、お札の肖像になるのにふさわしい人物でした。

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