野口英世(のぐちひでよ)といえば千円札の肖像でおなじみの人物ですが、具体的にどのような功績がある人なのか?と聞かれると、答えられない方も多いのではないでしょうか。

野口英世はノーベル賞の候補に3回も選ばれた日本を代表する細菌学者で、明治時代から昭和初期にかけて活躍した人物です。

実は世界的にもよく知られていて、さまざまな病気の原因を解明することに大きく貢献しているんですよ。

野口英世に関するさまざまな功績やエピソードをご紹介します!

天才の略歴

1876年(0歳) 福島県の農家に生まれる

1878年(2歳) 左手に大やけどを負う

1892年(16歳) 左手の手術を受ける

1897年(21歳) 医師の資格を得る

1898年(22歳) 清作から英世に改名する

1900年(24歳) 渡米

1901年(25歳) 毒蛇の研究

1903年(27歳) デンマーク留学

1911年(35歳) 梅毒スピロヘータの純粋培養に成功

1914年(38歳) ノーベル賞候補(1回目)

1915年(39歳) ノーベル賞候補(2回目)

1918年(42歳) エクアドルで黄熱病の病原体を発見

1920年(44歳) ノーベル賞候補(3回目)

1928年(51歳) 西アフリカで死去

天才の人生を変えたもの

野口英世といえば幼い頃にやけどを負い、左手が不自由だったというエピソードが有名ですよね。

1歳半の頃に母が目を離した隙にいろりに落ちてしまい、やけどで腫れあがった手はコブのようになり、指が開かなくなってしまいました。

母親のシカさんは幼い息子から目を離してしまった自分を責めましたが、それだけではなく「左手が不自由だと農業はできないだろうから、学問で身を立てられるように」と考えて、教育費を稼ぐために一生懸命働きました。

そんな母の気持ちを知ってか小学校では人一倍勉強に励み、とても優秀な成績を修めました。

もし、この大やけどがなければ天才は農家として一生を終えていたかもしれません。

医師資格にスピード合格!

当時の小学校は義務教育ではないため、基本的にお金持ちしか通うことができなかったそうです。

貧しい農家の生まれでは、母がどれほど一生懸命働いても小学校を卒業するので精一杯でした。

進学するためのお金がなかったところ、教頭先生が学費を援助してくれ、そのおかげで猪苗代高等小学校へ進学しています。

15歳のときに左手の障害について書いた作文がきっかけになり、教師や同級生の支援で手術を受けることができました。そのとき、医師という仕事のすばらしさに感動して医師を志します。

当時の医師免許の試験は「医術開業試験」と呼ばれ、前期と後期にわかれていて、合格するには10年かかるといわれるほどの難関でした。

この難しい試験を野口英世は猛勉強してたった1年で合格しています。

優秀ぶりがよくわかるエピソードですね。

研究者として世界的に評価される

医師となった英世は高山歯科医院、伝染病研究所、横浜海港検疫所などで働き、検疫所ではペスト患者を発見しています。

日本でのペスト流行を食い止めたことが高く評価され、国際予防委員会のペスト対策メンバーの一員として清国(中国)に行き、防疫の仕事に就きました。

中国語や英語など外国語が得意だったこともあり、残留を希望されるほど優秀だったようですが、研究者となるために渡米します。

最初はペンシルバニア大学のフレキスナー博士の助手となり、毒蛇の研究をしました。

この研究結果が評価されてデンマークへ留学し、国立血清学研究所で細菌学を学んでいます。

そして、当時の医学の最先端研究が行われていたロックフェラー研究所の所員になり、再度アメリカへ渡りました。

さまざまな研究で結果を出し、ノーベル賞候補に3回も選ばれています。

研究する医師として活躍

自身の左手の手術がきっかけで医療の素晴らしさを知り、医師を志しましたが、治療するより研究することに熱心でした。

野口英世が活躍した19世紀から20世紀にかけては細菌学が発展した時代で、パスツールやコッホといった有名な学者がこの時期にさまざまな病原体を発見しています。

新しい病原体を発見することは難しいのでは?と思われた時代でも、英世はあきらめずに研究を続け、小児麻痺狂犬病トラコーマなどいくつもの病原体を発見しました。

また、世界的に猛威を振るっていた「黄熱病(おうねつびょう)」という病気の研究にも情熱を注いでいます。

黄熱病の原因をつきとめる

黄熱病は蚊を媒介としてかかる伝染病で、致死率は30%~50%と高いにも関わらず、当時は治療法がない恐ろしい病気でした。

1918年、野口英世はエクアドルで黄熱病の病原体を発見。これは当時の世界でトップニュースとして報じられたとか。

研究結果をもとに「野口ワクチン」が開発され、南米で大流行していた黄熱病を収束させて多くの人の命を救っています。

研究所の同僚が黄熱病で死去しても研究を続け、ついにみずからも発症して51歳で亡くなりました。

野口英世、天才の理由まとめ

野口英世は「誰よりも三倍、四倍、五倍勉強する者、それが天才だ。」という名言を残している通り、大変な努力家であり、勉強の天才と言えます。

貧しい農家に生まれ、左手のやけどというハンデを負いながらも猛勉強をして、10年かかるといわれる医師の資格を1年で取得しました。

医師になってからも「日本人はいつ寝るのか?」といわれるほど研究に打ち込み、細菌学者として誰よりも努力をしています。

こうした勉強姿勢があってこそ、当時は治療方法のない難病だった黄熱病のワクチン開発という偉業を成し遂げることができたのでしょう。

野口ワクチンで多くの人の命が救われたことが世界的にも高く評価されているので、お札の肖像になるのにふさわしい人物と言えます。

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